鳴尾二胡教室 教室訓
鳴尾二胡教室 教室訓
始まったばかりに思う今年も、もう12分の1近く過ぎてしまった。
昨年末の記事で、今年も張り切って彫る、と宣言した丑年年賀状は、彫り上げて(去年)、やっとのことで100枚くらい刷り、住所印刷(松の内)、会った人に手渡しつつまだ大量に手元に残っている、という例年の流れを踏襲している。
人としてどうかと思う、世の常識になかなかついていけない日常を何とかやり過ごし、今年もいろいろ頑張っていきたいと思う所存。
こんな性格なので、年頭の誓いなどというのも、幼少より自分に裏切られ続けた長い年月の間にいつしか自然とその習慣を無くしてしまったが、年の改まる清々しい雰囲気は嫌いではないので、誓いとは少し違うが、鳴尾二胡教室の教室訓などいくつかご紹介しようと思う。
一、弓のご利用(配分)は計画的に
語呂がいいので、よく使う教室訓として毛筆でしたためて壁に貼ってある。
今自分が弓のどの部分を使っているのか、あとどのくらい弓を使えば端に到達するのか、このリズムを正確に弾くには、どこで返せばいいのか、擦弦楽器にとっての弓は、歌手や管楽器奏者の息と同じなので、手元を見なくても体感として把握したい。
一、最小の労力で最大の効果(省エネ主義)
一、脱力こそ正義
一、力を用うるは一刹那
(「用力是一刹那的」by 姜克美)
この辺りは大体似たようなことを言っている。
日本での二胡学習は、本場中国と違って圧倒的に大人から始める人が多いので、意欲があって真面目な分、どうしても一生懸命弾こうと力んでしまう。脱力は中国語で『放松』という。初級から中級のレッスンのほぼ九割は、手を替え品を替え言葉を替えて「力を抜け〜!」ということしか言っていないんじゃないかと思う。もはや放松教を開き、イデアじゃないけどどこかに完璧なる脱力の世界があって、そこに一歩でも近づくことで救済が得られるとか言い出しかねない勢いである。
「力を用いるは…」という言葉は、中国国家一級演奏家である姜克美先生にうちの教室にご来臨いただき、レッスンをして下さった時に先生がおっしゃった言葉である。ちょっとカッコいい言い方だったので、いずれ掛け軸にでもして末長く鳴尾教室に伝えていきたい。
一、衣装は全力
一、挙頭望音楽(頭を上げよ)
どうも教室内外で、鳴尾先生が『演奏は見た目』と言い切ったような誤解が生じているらしいが、流石にそこまでは言っていない。ただレッスンで、演奏における視覚情報の、一般の予想を遥かに越える影響の大きさを論じた文章をいくつか紹介することはある。
その真意を汲み取ってかどうか(?)うちの教室の発表会では力一杯コスプレする人が年々増えている印象で、発表会の写真をSNSでまとめて投稿したりすると、ほぼカオス状態である。(そして誤解がさらに積み重なる・・・。)この発表会の様子はまた改めて紹介してみたい。
頭の位置は、背中を丸めて下を見て演奏する人が多いのでよく注意を喚起する。
最初は私も見栄えだけの問題だと思っていて、あまり言いすぎるのもどうかと思っていたが、あるレッスンでいつも俯いていた人に無理やり頭を起こして弾いてもらったら劇的に音が変わったことがあった。頭が上がったことですぼまっていた肩の位置もかわり、必然的に弓の弦に対する圧力が変わって、長年の課題であった固い音が一気に柔らかく変化した。頭の位置と音色には緊密な相関関係がある。爾来、この言葉が教室訓に加わった。
ちなみに『挙頭望音楽(ju tou wang yinyue)』は、北京留学中に部屋のドアにずっと飾ってあった李白の漢詩の一句「挙頭望明月(ju tou wang mingyue)」に掛けたつもりであるが、中国語の語感的に正しいかは分からない。
一、打ち上げまでが発表会
鳴尾教室の金科玉条。何なら発表会が終わるとその場で料理を運び込み、有無を言わさず全員参加の打ち上げを開始するスタイルをここ何年も貫いている。コロナの第一波と第二波の間を縫ってかろうじて開催した2020年の発表会では、事後にオンラインで行った。
今回のコロナ騒動は、始まった時のように急激に収束するような類のものではなく、長い時間をかけて対応していかなければならない、と腹も決まってきた2021年、鳴尾二胡教室も状況に応じつつ、楽しく二胡レッスンを続けていきたい。(結局年頭の誓いっぽくなってしまった。)