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CULTURE

African diaspora(アフリカンディアスポラ) vol.1

CULTURE, MUSIC

photo by the author for Hyperallergic

Black lives mattersを発端にアフロを起源とする人達の自我意識は、SNS等を通じて加速されたように思われます。 その流れの一環かもしれないのが、2022年にセオ・クロッカーがゲーリー・バーツを交えて「Jazz Is Dead」を発表

Theo Croker(セオ・クロッカー)

彼はアフロを起源とする人達によって創られた音楽から自身の起源を見つける鍵を見出し、そして畏敬の念を持って接しています。

「Jazz Is Dead」とタイトルイングしながらも「Jazz」という音楽そのものは死んでもいなく、殺されてもいない。「Dead」とは、自分達じゃない人種が作った言葉であり、環境に対してである。 そしてマーケティングにより分断され、引き抜かれたアーティステックな価値を(アフロを起源とする)コミュニティに取り戻す事を願っている。

前置きが長くなりましたが、世界に広がった African diaspora(撒き散らされたアフリカの血脈と解釈します)の軌跡を辿りそこからアフロ・カルチャーに着目する事で更に「今、生まれるBLACK MUSIC」の味わいが深くなるのではないでしょうか。

そこで先ず、アフリカ大陸を大きく地域割すると、北・東・中央・西・南と地理的には確認できます。 すると、今の時流の精神的な支柱となった国が炙り出されてきます。 それは東に位置する「エチオピア」です。 此処はイタリア領となった1936年からの5年間を除いて植民地化されることなく独立を保っています。 特にエチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世はアフリカ統一機構の初代議長であり、ラスタファリ運動ではカリスマ的存在であり、世界各地の黒人に大きな希望を与えました。 同じく初期のラスタファリアニズムにも大きく影響を与えたマーカス・ガベイも着目した皇帝であるのは有名です。

ハイレ・セラシエ

マーカス・ガベイ

更に、エチオピアにはバッハ以前の時代(6世紀)にすでに、メロディーを書いて作曲をし、それを独自の方法で譜面やチャートのようなものを残していた St.Yared(セント・ヤイド)という人がいた。 スケールやメロディーなどが西洋より早く確立されていました。 エチオピア音楽の歴史は、エチオピアの国そのものの歴史でもあります。 その根底に流れるのは古代キリスト教の宗教音楽で、そこにエリトリア、ソマリア、スーダンなどの東アフリカ各地の民族の伝統音楽をミックスし、発達してきました。 8世紀ごろからイスラム勢力が東アフリカに進出し、イスラムの音楽が合流。 現在まで受け継がれるエチオピア伝統音楽の基礎となります。

St.Yared(セントヤイド)

さて、このエチオピア由来の音楽の流れを組むJAZZに注目し実践した面白い人物がLAにいます。 20年間LAのラジオ局KPFKでSpacewaysというラジオ番組を担当し、DJとミュージシャンの間を渡り歩くゴッドファーザー的存在のカルロス・ニーニョ(Build An Arkを率いたあの人物)、そしてもう1人、日本人をルーツに持ちUKのビートミュージックであるブロークンビーツに影響を受け、その後LAに渡ったマーク・ド・クライヴ・ロウ。

カルロス・ニーニョ

マーク・ド・クライヴ・ロウ

LA(ロサンゼルス)はスケートボード、サーフィンを代表するストリートカルチャーが盛んなのは言うまでもなく、NY(ニューヨーク)より環境がフリーダムで、ストレートアヘッドなモノより、クロスオーバーでフュージョンされたモノが目を惹きます。 様々な人種のコミュニティが存在し食べるモノも含めてハイブリッドに交差した地です。

マーク・ド・クライヴ・ロウがこのLAに移住して6か月ぐらい経った頃、シークレット・ジャム・セッションに招かれミゲル・アトウッド・ファーガソン、トッド・サイモン(Ethio Cali)、ニア・アンドリューズ、シャフィーク・フセイン(Sa-Ra Creative Partners)など、たくさんの素晴らしいミュージシャンに出会います。 2010に彼は自身が主催するクラブ・ナイト・パーティー「CHURCH」をスタート。 このパーティーは知る人ぞ知る内容であり、地元の多種多様なミュージシャンを巻き込んだ、正にDOPEな空間を展開させていきました。

そして、あのドワイト・トリブルが訪れ飛び入りで参加し、カマシ・ワシントンも初期の頃から足を運び、彼とはエチオピアンジャズの影響を受けた Ethio Caliと呼ばれるプロジェクトにて共演します。

ドワイト・ドリブル

LAはワシントンほどでは無いがリトル・エチオピアもあり、エチオピアの系のコミュニティが存在します。 しかしエチオピア由来のジャズはこのコミュニティ経由ではなく、DJのシーンの中でここ20年くらいかけて知らされていったとマーク・ド・クライヴ・ロウは語っていました。「しまいには、まるでロイ・エアーズを知っている感覚と同じように」(特にムラトゥ・アスタトゥケはLAのミュージシャンと共演するまでに至る)そして彼はEthio Caliの中でピアノを弾くことなり、後に彼の気付きとして「日本の伝統音楽がエチオピアの音楽と全く同じ音階を使用している、ってことにね。これにはすごく感動したよ」と語っています。(此れは自身のルーツとの符合と巡り合わせに対してでしょう。)

さて、エチオジャズの創始者ムラトゥ・アスタトゥケ(Mulatu Astatke)について。

1973年位に巨匠デューク・エリントンの前で演奏し、「こりゃ驚いた。アフリカ人からこんな音楽を聴かされるとは予想しなかった。」と言わしめた人物であり、其れによりデューク・エリントンのビッグバンドとセッションを行っています。 皇帝ハイレ・セラシエ1世も健在であり、この日にエリントンは午前中に宮廷へ行って皇帝に謁見し、皇帝から勲章を受け取り、夕方は演奏する、という彼にとっても何とも濃厚な日でもありました。 更にムラトゥ・アスタトゥケは、この頃にはミュージシャンやダンサーを招聘してバンドと共演させるなどの実験的な事を行ったり、エチオピアの東西南北の民族に伝わる楽器や演奏方を取り入れて、社会的にはうしろめたい存在として蔑視された”被差別の音楽職能集団”のモノを再創造してきた人物です。 その為かスピリチュアルな匂いがあり、根源的なファンキーさを感じる要素がLAのDJシーンに支持されたのではないでしょうか。 そして皇帝に、「すばらしい、ぜひ続けなさい」と耳元で囁かれ、励まされた稀有な経験を持っています。 彼は音楽構築の中で「十二音音楽に対する五音音階の挑戦」そして「その彩色、美しさを失わず、いかに使いこなすか」彼はこの重要性を訴え続けています。

「たくさんの連中が私の楽曲をサンプリングしまくっている。私の楽曲の利用について正式なやりかたで依頼されることもある。そうじゃないやつも多い。でも、私のライヴの客席をみてみなよ。最近は特に若い子たちばかりじゃないか。これは私の楽曲をサンプリングしてくれるやつらのおかげとも考えられるのさ。」「もちろん。若者たちは私の楽曲から、さらに新しい音楽を再創造する。あっぱれなことじゃないか。よいことだよ。連中が楽しむ姿をみて、私も楽しむのさ。」(ムラトゥ・アスタトゥケ)

彼のこの言葉からも彼を含む東アフリカの伝統や精神は脈々と若い世代に繋がった事により「今、生まれるBLACK MUSIC」の中にもこの系譜があり、そして世界に広がったAfrican diasporaの大きな1つであると確信しています。

最後に東日本大震災の直後、ムラトゥ・アスタトゥケが「日本の兄弟、姉妹たちに捧げる」と言って演奏した曲を添えさせて頂きます。

ムラトゥ・アスタトゥケ

参考文献:
エチオジャズ狂映像人類学者の蛇行(音楽之友社)/ 川瀬 慈
interview Kibrom Birhane / 柳樂光隆