様々な視点で情報を発信するカルチャーマガジン

  1. HOME
  2. PEOPLE
  3. Japanese innovator~テディ団 vol. ① / “Soul Dance” is made in japan.
PEOPLE

Japanese innovator~テディ団 vol. ① / “Soul Dance” is made in japan.

PEOPLE, CULTURE

1945年以降、敗戦国の日本には各地に軍事基地があってね、そこでダンスパーティーが開かれ一つの文化が生まれたんやね。

ソウルミュージックに合わせ英米の軍人はペアーダンスに興じて、俺も若い頃に基地にてダンスの楽しさを体感したよ。

目の当たりにするパーティーグルーヴ。

其れを日本人が、生で感じたモノを自分の感性で創りあげて行くのよ。

まさしく、俺のソウル・ダンスの原点はここからや!

此れは本気でストリートダンスに取り組んだ事のある人ならばその名を耳にしたはずである『テディ団』の話す言葉です。

今回を含めて数回に分け、氏との対面にて貴重な話と経験を伺えたのでそれを(私の質問も含めて)記していきます。

此れはダンスをやった事があるとかないとか関係なく、日本におけるイノベーター(革新者)の記録と捉えて読んで頂ければ幸いです。

TEDDY DAN (テディ団) プロフィール

1978年 EMI主催の「第一回世界ディスコダンスコンテスト」にて優勝し、此れを皮切りに幾多のキャリアを積み重ねダンスシーンでは『ソウルの神様』の異名を持つ。

今もなお、長年培った高度なベーシックを基にしたそのパフォーマンスは数多くのダンサーの手本となり目標となっている。

現在は2017年より「認定NPO法人 J-Blue Organization」を京都にて設立し、国内はもとよりアジアに向けて日本で生まれた『ソウル・ダンス』の歴史・文化・ルーツを正しく後世につなぐ活動を行っている。

“Soul Dance” is made in japan

「ソウル・ダンスはメイド イン ジャパン!」と言い切る氏・・・

此処からは生の声を届けます。

 

ー 生い立ちを聞かせて下さい。

「1955年(昭和31年) 北九州で生まれて1959年(昭和35年) から大阪は港区で育ったよ。

父、母が社交ダンスをやっていた事で6、7歳からダンスに触れ、港で育った事もあり外来船からの人達やジュークボックスからの音楽に触れてきたね。」

 

ー その頃ってゴーゴーダンスが踊られていた時代ですよね? 最初に踊りに行った場所とかはどんなトコでした?

「そうやね。最初の頃はダンスホール、京都の『田園』や『バチバチ』とか出入りしていたよ。其処ではバンド(フィリピンバンド)が演奏していて其れで踊っていたね。

そんな事もありバンドを組む機会があってね。ドラムやパーカッションなんかを担当させられるけど左利きだから覚えるのに苦労してね、上手くならなかったけど(笑)。

でもダンスはどうやらこの頃から向いていたね。」

 

ー 其処では、どんな音楽を聴きそして踊っていました?

「うーん。グループサウンズの流れからのポップスかな?其れとショッキングブルーとかのロック、R&Bとかやね。

ジェフベックも好んで聴いたよ。スティービー・ワンダーが彼にプレゼントしたあの曲も良いよね。

この曲(*1) は色々あったよな(笑)。まぁこんな感じでブルースの影響もあったかも。」

(*1)
此れはスティビーのヒット曲「迷信」に纏わる話。この「迷信」はスティービー・ワンダーがジェフベックに対してゲストとして協力してくれたお礼にプレゼントしたがそれをなんと!スティービーはセルフカバーをやってしまいジェフベックが世に出すまえにヒットさせた曲。しかも皮肉にもジェフベックがシングルカットにこの曲をと考えていた最中。当然ジェフはスティービーに失望し、スティービーはジェフに後ろめたい思いを抱いていたのは当然です。

長い月日が経ちこんな光景へと

 

ー ジェフベックが好きならブルースに行くでしょう(笑)

「後々ブルースに心惹かれる事に気付くけどね(笑) 其れから踊りながらも大阪と東京を行き来していてね。

米軍基地に出入りし始め、大阪出身ながらもダンスのキャリアは東京からスタートと言っても良いかもね。

その頃は六本木のアフロレイキ、エンバシー、赤坂のビブロス、MUGEN、ハーレムなんかにも行っていたね。」

 

ー その当時、東京はどんな人が目立っていましたか?

「色々いたけど・・・当時はマイケル、ススム、ケンジ等が所属したブギーシューズとか・・・このマイケルは後にネッシーギャング(*2) に所属するのよね。」

 

ー ネッシーギャングですか!それとケンジさんってひょっとして ヨシボー(*3) さんの師匠と言われる人では?

「そう。江守(*4) さんとこのネッシーギャングね。ケンジはそれから横浜から九州に戻っているよね。」

(*2)
ネッシーギャング

1970年代半ばに一世を風靡したファンクバンド Kool & the Gang が74年に来日。プロモーターからの要請で、ともにステージに立つダンスグループが結成される。それをきっかけに日本最初のプロダンスチーム、ネッシー・ギャングが結成された。(後にネッシー・ギャングスペシャルと改める)

(*3)
ヨシボー (横田 義和 1957年〜2016年)
九州は博多発の実力派ダンスチーム “Be Bop Crew” を率い、日本のSTREET DANCE SCENEを築き上げた人物の1人

(*4)
江守 藹(えもり あい)
こちらを参考に!
https://streetdance-m.com/roots-of-culture-1/

 

ー その米軍基地ですが、特にどの辺りを巡っていました?

「先ずは横田基地。この時、知人の身内が基地で働いていて出入りするパスを貰えてね。コザ(沖縄)(*5) も良く行ったよ。ココはロックが良く流れていたなー。勿論、岩国も行ったけどね。

因みに、例えば『ジゴロ』や『ワーム』何かもArmy、Navy、AirForceで踊り方が違うんだよね。」

(*5)
喜屋武マリーのドキュメント映画『Aサインデイズ』を観ると空気感が伝わるかもしれません。

日本の米軍基地

 

ー 米軍基地での生のグルーヴを感じられていますが、やはりソウルトレインも外せないと思います。幾つぐらいから見られていました?

「20、21歳位やったね。まぁ大阪には付近には基地はなかったよね。だからなのかディスコでは基地が付近に有った東京なんかはペアーで踊り、基地が付近に無かった大阪はそうじゃなかった。

ただ、このソウルトレインのダンサー(LA)は関西、特に大阪に来日しその後に東京とかに行く流れだったよ。だから大阪ではショウダンスを覚えようとディスコの鏡に向かって踊っていたね。

余談やけどファンキーフルーツ(日本特有の踊りのスタイル)が大阪には強く定着していたからロッカーズのトニー・ゴーゴー(ソウルトレイン出演者)のスタイルは馴染まず、彼は直ぐに九州に行ったよ。こういうのも地域性だろうね。」

 

ー となると恐らく1975年ぐらいですかね? 団さんにとってはこの辺りがキーとなる年代ですか?

「本格的にダンスを始めたのがこの頃だからそうだね。当時は日本では(ダンス関係の)レコードとダンスは同時進行していて、この曲ならばこの踊りみたいなのがあったね。

俺も1978年にレコード会社と契約を交わし1年位、所属していたけど、やりたい事が出来なかったからその後は更新させなかったね。

この70年代後半から80年代初期位は様々な地域での踊りがあり、まぁ盆踊りをイメージして貰うと良いかな。で其れ等が正確に踊られてね。此れは日本人らしいモノだったと思うよ。

1983年に D-TROOP(*5) を結成し活動を前に進める中、色んな新しいダンスが日本に入ってくるのよ。90年代にニュージャックスウィングが流行りこの辺りから徐々にダンスへの関心が薄れ離れていったのよ。

でもねー『団さん、やっていきましょうよ!』とチェリー(*6) とかヨシボーに言われてね。

其処で改めて『オレには何があるのか?』って自問したのよ。そしたらパーティーダンスとソウル・ダンスをもう一度顧みたのよ。1978年に世界大会でのチャンピオンになった時にフロアでステップを踊った時に会場のヤツらが驚いていたのを思い出したりしてね。

更に、その中の『ベーシック』の大事さに気付いてね。この『ベーシック』を前提に自由に踊るのが凄く大切な事だとね。

この『ソウル・ダンスのベーシック』を教えている時にね スティブ(*7) が目撃して『其れは凄く大事だ!』、加えてチェリーも『団さん、其れを続けて下さい!』こんな風にいわれてね、嬉しかったよ。でも2人とも今は居ないけどね。(苦笑)

敗戦国である日本に出来た基地、此処で踊られた『パーティーダンス』を日本人が分析して新たに『ソウル・ダンス』と命名し作られたこの文化をチェリー、スティーブ、2人の後押しもあるから此れを伝えていく事が俺の使命と感じてね。」

 

ー 確かに団さんの提唱している「ベーシック」は一見ではシンプルで、身体の部分部分は簡単そうに見えますが、其れを連動させると非常に難しく、且つ興味深いダンスです!

ー ところで、1978年の世界大会について伺いたいのですが・・・

 

(*5)
D-TROOP

テディ団氏を中心に結成し大阪のアイコン的存在の老舗のグループ。現在はP-KO氏を中心に活動は継続しオールドスクールなスタイルはしっかりとした技術は元よりテディ団氏が提唱するパーティーダンスもしっかりと継承

(*6)
チェリー (Wild Cherry 龍田浩二 1961年〜2010年)

1983年 D-TROOPに所属
1985年 ELECTRIC BOOGALOOSの “SKEETER RABBIT” “POPPIN PETE” の来阪時から交流を持ち、彼らからポッピングを学ぶ。そして1991年「O.G.S(OSAKA GANG STARS)を結成。その後チームコンセプトを「O.G.S(ORIENTAL GANG STARS)」に変更し、大阪を拠点に福岡、東京、韓国までメンバーの輪を広げ今尚語り継がれる日本のストリートダンサーの超重要人物。(テディ団氏の右腕的存在でも有名)

(*7)
スティブ a.k.a Skeeter Rabbit (Stephen Mark Nicholas)

1960年〜2006年Electric Boogaloos所属。マイケルジャクソンを筆頭に様々なアーティストのバックアップ。特にストリートダンスの中のスタイル「ポップ」に大きな影響を与えていますが、のみならず様々なスタイルを踊り、高い身体能力だけでは無く繊細な表現も特筆に値します。

・・・

今回は一旦、ここで筆を置きます。

メイド・イン・ジャパンである、このソウル・ダンス。日本人の緻密な分析力と農耕民族(Agriculture race)である事による”耕す”という行為で洗練されていきます。

そして昔を顧みながら歴史を探究し新たなソウル・ダンスの構築に挑むテディー団。

まだまだ目が離せませんね!

J-Blue (認定NPO法人 J-Blue Organization)
ダンス道の育成事業の改良や、日本で生まれた『ソウルダンス』の歴史・文化・ルーツを正しく後世につなぐことを目的に設立。
https://www.j-blue.org/