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夙川、アートと実業が交わるところ / 道楽がつくった阪神間文化 ⑥

ART, CULTURE

西宮は「住みたい街」ランキング等で上位を占めることが多く、人気の理由として

  1. 抜群の立地と交通アクセスの良さ
  2. 文教住宅都市宣言、子育てに最適な環境
  3. 高級住宅街が多く、住環境も良好
  4. 自然や見どころがいっぱいあります!

などが挙げられている(「なぜ西宮市は住みやすいのかを検証しました」センチュリー21アクロスグループ から一部分)。

特に夙川畔は、青松流水、桜やツツジも美しく、適度な傾斜があり、散策コースとして本当に気持ちのいい一帯だ。 夙川沿いの桜並木は戦火で消滅したものを、1949年に植樹したものだそうだ。 その夙川公園の苦楽園口駅周辺で、1980年代に「架空通信テント美術館」という美術館を仮設し、現代美術の展示、パフォーマンスが行われていたというのは、驚きだ。

仕掛け人は、津高和一(1911~1995)。 ここでは、前回(元祖「独断と偏見」~コレクター山村德太郎)取り上げた山村德太郎のコレクションにきっかけを与えた美術家とだけ紹介しておこう。 第1回目の同展には、160名の作家による200点の作品が寄せられた。 津高が「生活の場が、即美術との接触の場であり、実に気儘に美術作品と交流対話できるのが、本来の美術のありかた」(同展報告書、1981)と述べ、美術評論家の乾由明(実家は谷崎潤一郎の小説「細雪」にも登場し、2005年まで続いた高級料亭「播半」)が「私は香櫨園浜から北山公園に至る夙川沿いの一帯を市で整備して、カルチュラル・プロムナード(文化の散歩道)ともいうべき、自然と文化の融合した地域にすべきだ」(同前)と考えていたと言い、「美術関係者や愛好者だけではなく、身近な生活空間に出現した美術作品の数々は、西宮市民へも印象づけるものであったといえよう」(『西宮現代史』第1巻2、2007。竹内利江「文化行政の開始」)と総括されている通りだ。 この精神は今も西宮市に受け継がれ、2019年に発表された『西宮市文化振興ビジョン[第2期]』でも「『暮らしと共にある芸術』が息づき、他者を受け入れる柔軟性を持った成熟した市民社会が形成されること」が強調されている。

津高和一
阪神香櫨園駅の南西、西宮市大谷記念美術館にも多くの作品が収蔵されている。
https://jmapps.ne.jp/otanimuseum/sakka_det.html?list_count=10&person_id=193

播半
関西を代表する料亭の一つだった。こんなウェブサイトもある。
「はり半(播半)を偲ぶ」
https://sites.google.com/site/harihankouyouen/

西宮市文化振興ビジョン[第2期]
https://www.nishi.or.jp/shisei/seisaku/bunkashinko/shinkovision.html

夙川畔にはもちろん豪奢だったり瀟洒だったりするお屋敷が数多く、夙川から東に少し外れたニテコ池との間には松下幸之助の旧居、光雲荘(迎賓館的役割。1939年完成。建物は2008年に枚方市のパナソニックミュージアムに移築)、名次庵(戦後に建てた私邸)があり、香櫨園駅の北側には辰馬邸に隣接して辰馬考古資料館がある。 そもそも香櫨園駅の北西あたりは「屋敷町」という。

光雲荘(パナソニックミュージアムのリーフレット)
https://e-jomsa.jp/pdf/kouunsou_pamphlet.pdf

光雲荘移築工事
https://www.kajima.co.jp/news/digest/jun_2009/site/site.htm

辰馬考古資料館
https://hakutaka.jp/tatsuuma/

▼ 光雲荘の正面と勝手口。 コロナ禍で外出を控えるため、Googleストリートビューから。

辰馬考古資料館

松下幸之助は42歳の時にある茶会に招かれ、茶の嗜みが皆無であり招待客の前で恥をかいたことをきっかけに、茶道を始め、茶道の精神文化に強く惹かれていったという。 以後全国各所に茶室を十数件寄贈したようで、大阪城西の丸庭園にある豊松庵も、その一つだそうだ。 寄贈といっても、スケールが違う。

ただ、それ以外には特に趣味というほどのものはなく、ある取材で「私には趣味はないですな。まあ、しいていえば、夢が趣味ということになりますかな」と答えたという。「私みたいに芸のない者は、夢でも描かんことにはしょうがないかもしれないが、そういう意味で空想もまた楽しいものだと思っている。これを私の夢の哲学とでも名づけようか」と続けている。 9歳で尋常小学校をやめて奉公に出、22歳で独立、一代で松下電器、パナソニックを築き上げた叩き上げの実業家らしい「趣味」ではないか。

「幸之助と伝統工芸」展に出品されていた作品も、多くが近現代の作家の手になるもので、由緒ある「名物」は少ない。 同時代の工芸作家の「ものづくりの心」を学び、作品の購入によって彼らを支援するということで、松下の生きた姿勢としてみごとに一貫している。

「夢と希望と現実と―松下幸之助のことば〈42〉」
https://konosuke-matsushita.com/column/cat71/post-55.php

パナソニック汐留美術館「幸之助と伝統工芸」展
https://panasonic.co.jp/ls/museum/exhibition/13/130413/index.html

「幸之助と伝統工芸」展チラシ

そんな松下幸之助の名を冠しているのが、阪急夙川駅を下ったところにある、夙川公民館の松下記念ホールだ。 コンサートホールとして松下が1963年に建設して西宮市に寄贈、翌年4月に夙川公民館としてオープンした。

西宮つーしん「松下幸之助が建てた公民館」
https://nishi2.jp/30423/

自分が金を出し、自分の名のついたホールで、市民のコーラスやアマチュアのギターアンサンブル、学生や子どもたちの音楽グループが日ごろの活動の成果を存分に発表していることを、どう思っていただろうと想像すると、楽しい。 このホールを利用している人の中には、松下幸之助と西宮のゆかりを知らない人も多いだろう。 松下はそんなこと、構わないだろう。

今回本稿は、実のところ「道楽」とはあまり縁のないものとなったように思う。 松下は、「ものづくり立国」「製造業大国」としての日本の基礎を築いた、趣味も道楽も持たない実業一筋の男が、工芸作家にその心を学び、支援した。 求められれば茶室や音楽ホールをドーンと寄贈した。 なんとも豪気な話ではないか。