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南蛮美術蒐集が残したもの - 池長孟という人物 / 道楽がつくった阪神間文化 ④

ART, CULTURE

南蛮、南方の野蛮な、というのだから、大概な言葉だ。鴨南蛮は、江戸時代に外国人がネギを好んだから名づけられたとも、新しい料理だったから南蛮風(ハイカラぐらいの意味か)と呼んだともいわれている。もとは、北狄(ほくてき)、東夷、西戎(せいじゅう)と並んで、古代中国で周辺の異文化の人々に対する蔑称。中華思想(中国の自民族中心主義)を反映している。16世紀の日本では、東南アジア全般を指していたようなのだが、面白いのがいわゆる西洋人についてで、大体は南方から渡来したために、奥南蛮と呼ばれたこともあったそうだ。

神戸市文書館(旧 神戸市立南蛮美術館)

今は神戸市文書館になっている建物は、以前は神戸市立南蛮美術館と呼ばれていた。その前は市立神戸美術館、その前は私立の池長美術館だった。1938年に建てられた、アール・デコ調の名建築だ。池長孟、いけながはじめと読む。池長家は、幕末から瓦商、不動産業で財を成し、孟の父親は神戸市議会議長を務め、事業家でもあったそうだ。しかし、孟が24歳の時に早世。その直後から孟は、植物図鑑で有名な牧野富三郎への援助をはじめ、浮世絵や考古学資料の収集、地域の青少年のための道場建設など、あり余る財産を様々に使っていく。その集大成が南蛮美術というわけだ。

神戸市文書館
https://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/top.html
http://kenchiku228.blog85.fc2.com/blog-entry-583.html

文書館を入ると、池長の旧コレクションだった泰西王侯騎馬図の複製がかけられていた

南蛮美術とは何か

南蛮美術とは何か。教科書にも載っている、聖フランシスコ・ザビエル像、あれがもっとも有名な作品の一つだ。桃山時代を中心に盛行した、西洋の人物や文物、風俗を西洋の技法で描いた絵画で、ポルトガルやスペインのキリシタンや商人が南方経由で伝えたといわれている。フランシスコ・ザビエル(1506~52)は、1549年に来日したイエズス会というカトリックの修道会の宣教師。南蛮美術自体は、寛永年間(1624‐44)のキリスト教禁止政策と鎖国のために次第に忘れ去られていく。ザビエル像も北摂の「隠れキリシタンの里」で長年命がけで秘蔵されていたもので、池長が垂水の別荘を売ってまで手に入れた代物だという。今では重要文化財に指定されているが、作者は知られていない。修道士が指導し、日本人信徒が描いたものとされているようだ。

聖フランシスコ・ザビエル像。ザビエルの口から出ている言葉は「私は満たされています」という意味。下段には「さんふらぬしすこ さべりうす さからめんと(聖フランシスコ・ザビエルの秘跡)」と書かれている。
https://digital.asahi.com/articles/ASND27J7MNCVPIHB03M.html 
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/448760,
神戸市立博物館所蔵。重要文化財。パブリック・ドメイン

蒐集家(しゅうしゅうか)池長孟

池長は、蒐集家(しゅうしゅうか)と呼ばれる。蒐はクサカンムリと鬼(死んだ人)から成るわけで、死者の血のあとに生えると言い伝えられるアカネ科の多年草。たくさん集めて染色の原料としたことから、集めるの意味に転じたそうだ。同じ音の「収集」よりも、研究や調査など目的がはっきりしている場合が多い。彼には蒐集についての「十誡」(10の掟)がある。

  1. 自分に趣味もなく、分かりもせぬものを集めるべからず。
  2. もしにせものをつかまされても、自分の不明を深く恥づべし。決して人を怨むべからず。
  3. よきものは、比較的高値にても、買ふべし。悪きものは、いくら安くとも、買ふべからず。
  4. 売買の場合以外にては、芸術品には価格無きものと知れ。
  5. 箱書付などは、たきつけにすべし。初期のすぐれたるは、多く筆者不詳なり。
  6. 博識の人に教えらるるはよし。然も、最後の鑑定家は、わが眼力なり。
  7. 系統を立てて、集めるべし。雑駁な集め方は無意義なり。せぬ方がよろし。
  8. よきものが、よき人の手に納まりたるは、嬉しきことなり。
  9. 二枚とはなき逸品が、外人の手に買はれて、異国に持ち去らるるは、悲しきことなり。防ぐべし。
  10. 自己のものに非ず。国家の宝と心得て、その保存には綿密なる注意を要す。防火の事、言はずもがな。

このような情熱と使命感を胸に、先祖伝来の財を傾けて収集した作品群は高く評価されている。もし池長のような体系的で情熱的な蒐集家がいなかったら、散逸、流出してしまった国宝・重文級の作品は多く、全貌がつかめなくなってしまっていた絵師たちの流れや傾向もあったと言われている。

神戸市立博物館

しかし精魂傾けたコレクションも、戦後の税制の変更によって莫大な額を課税されることになり、さすがの池長も手放さざるを得なくなる。それでも散逸はさせず、神戸市へ美術館の建物、所蔵品をまとめて寄付することになって、南蛮美術館となり、のちにコレクションは現在の神戸市立博物館に収められ、建物は神戸市立文書館として残っている。今ぼくたちが三宮でザビエルに会えるのは、こういう経緯がある。

神戸市立博物館
https://www.kobecitymuseum.jp

神戸市立博物館で1月24日まで開催中の「つなぐ」展。池長が収集した作品も数多く展示されている。

ところで、ザビエルが所属していたイエズス会といえば、上智大学、六甲学院中学・高等学校など、世界各地で教育機関を運営している。六甲学院は、池長孟のご子息であるカトリック大阪大司教区第7代大司教の池長潤さんの出身校でもある。池長孟がキリスト教に帰依したとは聞いたことがないが、長男の澄はベルクソンらの倫理学を修めて学行一如を旨とした大学教員となり、潤がザビエルのはるか後継のイエズス会士となったことを思うと、池長孟が精魂やらいろんなものを傾けて集めた南蛮美術のコレクションは、物として残っただけではなく、むしろ精神というか生きる姿勢というか、無形のものとして息子たちに受け継がれたのではないかと思わされる。

池長の自宅「紅塵荘」(1928年竣工)は、財産税納付のため1946年に売却され、長く病院として使われていたが、2015年老朽化のため解体。現在は改築された病院の入り口の左右に、羊の彫像と外壁の大谷石だろうか石組みの名残がわずかに往時をしのばせた。ここから神戸市文書館までは歩いて数分。文書館には初めて入ったのだが、1938年の神戸又新日報の縮刷版を眺めていると、この建物ができた頃の時局の空気や、生きていた人々が間近に感じられ、不思議な気分になった。

紅塵荘
http://kenchiku228.blog85.fc2.com/blog-entry-582.html

紅塵荘跡に建てられている病院。玄関わきのしつらえがわずかに往時をしのばせる

参考:高見沢たか子『金箔の港―コレクター池長孟の生涯』(筑摩書房、1989)


神戸市文書館

住所 〒651-0056
神戸市中央区熊内町 1-8-21
TEL 078-232-3437
WEB https://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/top.html
開館時間 月曜日~金曜日 午前9時~12時、午後1時~午後5時
神戸市立博物館

住所 〒650-0034
神戸市中央区京町24番地
TEL 078-391-0035
WEB https://www.kobecitymuseum.jp/
開館時間 10時~18時
*金曜日は20時、土曜日は21時まで開館(入館は30分前まで)
*休館日は原則として月曜(詳しくはWEBをご確認ください)

特別展『つなぐ TSUNAGU―THE POWER OF KOBE CITY MUSEUM』
https://www.kobecitymuseum.jp/exhibition/detail?exhibition=366