打の二:パーカッションあるあると、この曖昧な世界 / 打と居と魚
前回は「パーカッションとパーカッショニスト」について述べました。
世間的には、あまり知られていないであろう「パーカッショニストとは何者か?」と言うことにも触れています。
さて、読んで頂いた方には、パーカッショニストの立ち位置について、なかなかのバランス感覚が必要である…と言うことがお分かりいただけたかと思うのですが、「このバランス感覚」を、時に人は「センス」と呼んだりします。
「センス」ねぇ…。
この言葉は、何やら「自由闊達で幅広い表現」の可能性を感じるのですが、どうも、そうとばかりは言い切れ無いようです。
具体例を挙げましょう。
「エナジーチャイム」という楽器があります。
き~~~~~~~ん
という、金属による高周波の音色です。
或いは、こちらはチベタン・ベル。
音色・余韻からいって、先ほどのエナジーチャイムとは全くの別物であります。
と・こ・ろ・が!
どーーーーーしても、こう聴こえてしまう方は、一定数いらっしゃいますね。
「おりん」
そしてその方々には、エナジーチャイム等の音色に「仏具」として、更には「葬式仏教の風景」まで浮かんでしまっていたり。
まぁ、チベタン・ベルのごときは、宗教儀礼と深く関連しているので、そういう意味での「風景の想起」はありえることなのですが)。
実際に、この手の楽器を鳴らした時に、
「おりんに聴こえてしまうからイヤ派」と、
「え?そんな風に思わんけど??派」に意見が割れた時があります。
おりん風でイヤ派にとっては、き~~~~~んは、センスのない音、というわけです。
かつ、他方では、自然な音であった、と。
つまりは、人それぞれ「音」によって惹起されるイメージは異なるのでありまして、
あなたのセンスにお任せします!!
↓
き~~~~~~~~ん
↓
おりん論争
みたいなことが起こるので、「バランス感覚」とやらの生ずる土台は、なんとも曖昧、人次第…であります。
そんなわけで「センス」とやらも、「ところ変われば常識変わる」が更に細分化された個人版、とでも言うべきもののようでして、自由な表現の源であると同時に、それを大きく制限する/されるものでもあるようです(伏線回収)。
パーカッション類はこれの宝庫でして、「ビブラ・スラップ→与作」とか、「銅鑼→中華」とか、まぁ~色々あります(むしろ、山川草木自然の音…等々含めて、それらの音風景的なものを指定されてしまう方が、作業としては確実なんですよね)。
ところで、実はこれ、抽象的なところの話だから、まだ良いんですよね~。
…そもそも、厳密には個人によって可聴範囲が異なるので…つるかめ、つるかめ。
さて、話を戻して終局へ。
私の場合は…と言いますと、それら「特別な意味合いを付与されがち」な楽器の音色も含めて、すべての楽器の音色を「単なる音色の一つ」として認識する脳回路が装備されています。
と言うか、そっちの回路の方がメインです。
この回路が私にとっては便利、且つ、とても気に入ってますが、
「好きなように、自由に、やってください」
と言われた時に、言葉通りに受け取った結果が、必ずしもハッピーエンドを迎えるわけでは無いのでありまして、対外的には危険な回路でもあるわけです。
そんなわけで、前回、それから冒頭で述べた「バランス感覚」とはまた違った階層でのバランス感覚も必要だったりします。