「音談るつぼ」#3 奥田優希さんと。
関西に移り住んで一番よかったのは、たくさんの魅力的な人と出会えること。 私の場合、人とはたいてい音楽やライブを通して出会う。「奥田優希」さんもその一人。 初めて会ったとき、奥田さんはピアノを弾いて歌っていた。 スカッと晴れた気持ちのいい歌いっぷり。 だからシンガーかと思っていたら「僕は作曲がメインなんですよ」と言う。 そう言いながら、ベースやドラムを触っていたりする。
奥田さんに何度かお会いした印象は、変な言い方だけど、「ここにいるけど、ここにいないような人だなぁ」というもの。 おしゃべりをしていても、心の目はどこか違うところを見ている感がある(きちんと丁寧に接してくださる人なんですけど)。 なんだかお話を聞いてみたくなった。
音楽、海外、旅。
「音楽、海外、旅」。 奥田さんのこれまでを振り返ると、この3つが欠かせない。 子どものころから音楽教室に通い、さまざまな楽器を学ぶ。「ギターを教わり始めたときには、もうドラムが叩いてみたいと思っていた」という具合に、興味があふれて尽きない子どもだったそう。 数多くのバンドのサポートメンバーとして演奏を重ねた。 後に作曲にも取り組み始める。
一方で大学を中退し、2つのアルバイトをかけもち。 貯めたお金をにぎりしめて友人と2週間、車で九州を旅した。 旅先では一日中、新しいことづくめだ。 音楽のインスピレーションもわく。旅暮らしの素晴らしさを知り、「旅人同士でバンドを組んで、演奏しながら地球を一周したい」と思うようになった。 24歳のとき、ギターとリュック一つで単身渡米。 夢の地球ツアーをついにスタートさせた。
「で、アメリカに着いて5日で、ほぼすべての荷物をパクられまして」
「え?もっかい言って」。 あまりに予想外のことをあっさり言うので聞き直してしまった。 荷物を盗まれたそうです。 ギターもパソコンも、服やお金も。 それはもう絶望して、夢をへし折られたほどの最悪の事態だったけれど、幸いなことに携帯電話は手元に残った。 旅の保険がおりて、いくばくかのお金を得ることもできた。 奥田さんはすぐさま、アメリカに滞在できる期間めいっぱいの90日後の航空チケットを購入。 ギターも購入。 ストリートライブでチップを稼いで暮らすことにした。 つまり、「アメリカでホームレスになったんですよ」。
▼ ホームレス期間の『家』。「まぁ家じゃないんですけど」と奥田さん。
奥田さんがいたのはアーティストのコミュニティにもなっている有名な観光ビーチで、路上生活者は珍しくなかった。 奥田さんはそんな先輩方から、生活の術を教わる。「携帯電話は図書館で充電できる」といった情報をもらうかわりに、奥田さんは100円マックを買ってきて先輩方に配った。 食べものをあげたことで、お前いいやつだなと言われて、また助けてもらう。 ギブ&テイクのやりとりが続き、生活は1ヶ月もすると安定(ホームレスだけど)してきた。 チップで稼いだお金やその後増えた荷物はもう盗まれないように、貸し倉庫のようなところに預けた。 預かってくれた人も、路上生活で知り合った人だった。
ちょっとスピリチュアル。
日々のストリートライブではいろんなことを発見した。 たとえば遠くにいる人に向けて、「エネルギーを送りながら歌う」と、その人が振り返ってニコッとしてくれる。 通りかかった自転車のタイヤの回転に合わせて曲のテンポをあげると、あきらかに気持ちよさそうに、軽快に走り始める。「音楽は言葉を越える」といわれるが、まさに音楽をとおして言語外のやりとりができることを実感した。
ある日、演奏しているといつの間にか白人のおじいさんが隣に座っていたことがある。 不思議な人で、たくさん話をしたのだけど、奥田さんはほとんどしゃべる必要がなかった。 口を開く前に、おじいさんが返事をするから。 あてずっぽうでない証拠に、会話は成立していた。 心を読まれている、と思った。実際、体に「心の内に入り込まれている感じ」としか言いようのない、奇妙な感覚があったという。「youの家は魚屋だな?」など、アメリカでは誰も知らないことも言い当てられた(ビンゴ!奥田さんのご実家は魚屋さん)。「君の歌はいい。考えすぎずにそのまま行け」と言ってくれたそうだ。 そしておじいさんは腕時計をくれた。「これは君が持っておけ。でもずっとではない、いつか誰かに譲れ」。
時々は危険な目に遭いながらも、奥田さんは90日間をアメリカの路上で暮らしきった。 ストリートライブで稼ぐチップは多くて1日20ドル。 それでも帰国するときは所持金が600ドルにまで増えていたという。 空港に迎えにきてくれた友人に、「鉛筆のにおいがする」と言われたそうだ。
▲ 不思議なおじいさんにもらった腕時計は今も使用中。最近、同じものが近所のホームセンターで900円で売られているのを知ってしまったけど、大切にしている。
音楽事業の拠点を構えて、その先へ。
▲ 完成したトランクルームの前で。
今、26歳。 奥田さんは新しい一歩を踏み出そうとしている。 売却予定だった親戚の家屋を改装し、1階はトランクルーム、2階はレコーディングスタジオ兼自宅スペースとした。 コロナ禍の影響を乗り越え、1階トランクルームはすでに運用中。 2階のスタジオもまもなく完成するところだ。「トランクルームの代表取締役」という肩書きを得たことで、「音楽やってられるのも30歳までだぞ」といった外野の声を、これからはかわすことができそうと奥田さんは笑う。
▲ トランクルームの廊下とルーム内部。最初は滞米の経験を生かしてゲストハウスにする予定だったが、コロナ禍のため、人が出入りしなくてすむトランクルームに変更。
▲ 完成間近のレコーディングスタジオ。壁の吸音材や床材は友人の助けを借りて自分たちで施工した。
現在、委託を受けて作曲するほか、BGMや効果音作成なども手掛ける。 スタジオが完成したら、自分のCDアルバムを制作したい。 すでにアルバム2枚分の曲は揃っており、コンセプトのイメージも固まりつつある。 ミュージシャンとして音楽を語るとき、奥田さんの表情が少し変わった。「旅先で自然のなかにいると、風で木が揺れる音が音楽のように聞こえることがある。 でも『音』と『音楽』は違う。『音楽』は人が命を減らしながら、そこに時間を費やしているから、人の心に届くようになるんだと思う。 人が魂を込めるから『音楽』なんだと思います」。 普段、言葉を探しながらやさしく話す奥田さんが、力強く語った。ミュージシャンとして、「魂のある音楽」を生み出していきたいと考えている。
人が羨ましがるような居場所ができた。 今後はここを拠点に音楽事業を展開していく、とうかがっていたし、ご本人だってそのつもりなのだけど、この日会ってすぐの雑談で、奥田さんは「ゆくゆくは大阪を出たいんですよ」と言った。 すでに候補地もある。 2年半かけてついに活動拠点が完成しようかというこのタイミングで、もう次の段階に進むことを考えている。 あぁ、やっぱり奥田さんは「ここにいるけど、ここにいないような人」なんだなぁとおもしろく思う。 根っからの旅人なのだ。
(取材 2021年4月)
奥田優希(おくだゆうき)
ミュージシャン。 1994年生まれ、大阪出身。 小学5年生のころ「X JAPAN」の「HIDE」さんに衝撃を受け、ギターを始める。 小学6年生から高校生頃まで音楽教室に通い、さまざまな楽器を学ぶ。 20歳で作曲家として活動することを決意。 アルバイトをして音楽機材を揃えつつ、サポートメンバーとして数々のバンドのライブやレコーディングに参加。 刺激やインスピレーションを求めて旅を繰り返し、24歳のとき単身渡米。 アメリカに到着した5日後ほとんどの荷物を盗まれ、ストリートライブでチップを稼ぎながら90日間暮らす。 現在、作曲家として活動するほか、BGMや効果音の作成にも携わる。 2021年春から音楽事業の拠点を構え、新たな一歩を踏み出す。
奥田優希|Instagram
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