北京遊学記 (2)
中国の大きな大学は敷地もとても広く、全国から集まる学生達は学内の寮に住み(6〜8人部屋をよく見かけた)、先生達の宿舎や、食堂、売店に郵便局などもあったりして、さながら一つの街のようと言われる。私の住んだ中央音楽学院は音楽専門なのでそこまでは行かないにしても、なかなかの規模だった。
二胡の聶靖宇先生の家はエレベーター付きの比較的高い建物の中にあり、毎週そこに通った。エレベーターにはボタンを押すだけが仕事というおばさんがいつも居た。日がな一日狭いエレベータ内に持ち込んだ小さい木の椅子に座り、編み物などしながら、乗客が告げる回数のボタンを木の棒でポチッと押すだけの、不思議な仕事だった。その後、中国の経済成長も著しい2013年に久々に先生を訪ねた時、この近代化の流れの中、さすがにもうエレベーターおばさんは居ないだろう思ったら変わらず座っていたので(同一人物ではない)、懐かしくもかなり驚いた。
聶先生は当時すでに退職されてしばらくたったくらいのご年齢だったので、戦争やその後の中国の激動の時代も経験されていた。レッスンでは時々、子どもの頃に覚えさせられたという片言の日本語も口にされた。が、相手が日本人だから知っている単語を使ってみた、という程度で特に反日感情を滲ませることもなく、ごく親切にレッスンをして下さった。
琵琶の范薇先生は、まだ院生の身分だったので、もう少し粗末な学生寮に住んでいた。みんな自炊をするらしく、廊下の壁際には各種私物と共に鍋や釜が積み上げられ、薄暗い天井は黒く油染み、控えめに言っても生活感が溢れすぎな場所だった。レッスンを受けに行くためにその廊下を歩いていると、しかしあちこちの部屋から、それはもう様々な楽器の妙なる調べや美しい歌声が聞こえて来るのである。中国最高峰の音楽大学の、更に狭き門をくぐり抜けた超エリート大学院生達が練習する天上の音楽のように麗しい音色と、香ばしいニンニクと油の匂いが漂う暗く煤けた廊下とのギャップの強烈さにクラクラしながら、毎回その廊下を抜けたものである。
この学生寮には怪談があった。ノイローゼで自ら世を去った琵琶専攻の学生の霊が夜な夜な指にはめた義爪をカタカタ言わせるというだけの話だが、当時の私も含めて中国琵琶を練習する者は誰でも、暇さえあれば右手の指を机の角や椅子の縁に当ててトレモロの練習をしてしまうという癖を発症し、琵琶奏者が居るところ必ずカタカタ音がするものなので、いかにも過ぎてちょっと好きな話だった。
琵琶の方は先生の勧めで考級試験(アマチュア用グレード試験)を受けることになった。音楽学院の教室で試験を受けたが、この試験を受けに来るのは小学生の子どもばかりで、彼らより頭一つどころか上半身飛び抜けた身長で一緒に試験を受けるのは面映ゆかった。課題曲の演奏中にハードコンタクトレンズをしている目の中にゴミが入り、演奏中に手を止めて洗うわけにも行かず、涙目で痛さを堪えていたのを小学校低学年くらいの小さな女の子に見つかって、「わあ、あの人、大人やのに泣いてはるわ。失敗したんかな。」と言われて大変決まりが悪かったが、無事合格した。
二胡は軽いので、時々担いで行って外で弾いたりもした。内モンゴル旅行に携えていって、ラクダの背中で演奏しようとしたら、ラクダを牽くおじさんに「ラクダは繊細だから、背中で音出すのは危ないからやめてね」と言われ、弾いた格好で写真だけ撮った。「その代わりここで弾け」と、ラクダの群れの横に木製の脚立を置いてくれて、そこで演奏したのが前回掲載した写真である。
中国では旧正月を祝うので、西暦の1月1日は祝日になるだけで特に何もしないが、日本人留学生としてはやはり何か特別感のあることをしたいので、友人数人と故宮を背後から見下ろす景山公園の築山のてっぺんに登り、初日の出を待ちながら、担いで行った二胡で(今度はまともに弾けるようになった)ラストエンペラーのテーマを奏でた。そんなことをして悦に入っているのは我々だけで、周囲では近所に住むおじいちゃんおばあちゃんたちが、腕を振ったり大きな声を上げたり、日課の健康法をこなしていた。
この年はどちらかと言えば暖冬だったようで、覚悟したほどの寒さではなかった。春節は天津の友人の家に招かれて過ごし、一緒に餃子を作ったり、爆竹を鳴らして典型的な中国北方の年越しを味わった。棒の先に爆竹をぶら下げて鳴らすのが楽しすぎて、次の日気がついたらお気に入りの長い黒ワンピースの裾が火花で穴だらけになっていた。その後間も無くして、春節を祝う爆竹はその怪我人の多さゆえに、中国全土で禁止または制限の方向に傾いたので、思う存分爆竹を鳴らして春節を祝った体験は貴重なものとなった。
春節も明けると帰国が近づいて、北京のあちらこちらの街角に出かけて名残を惜しむのに忙しくなった。一年弱とは言え、一生懸命楽器を弾いたり遊んだり(勉強は…?)した思い出をなるたけ回収して日本に持ち帰るために、あれもしなきゃ、ここにも行かなきゃと慌ただしく、帰国直前の焦りと寂しさの入り混じった心持ちは心象風景となって、その後も長い間繰り返し夢に現れた。