様々な視点で情報を発信するカルチャーマガジン

  1. HOME
  2. MUSIC
  3. 私のマジカルミステリーツアー水先案内人
MUSIC

私のマジカルミステリーツアー水先案内人

MUSIC, LIFE STYLE

皆さん、こんにちは。

今回は、私をマジカル ミステリーな音楽の旅へ引き入れた張本人、イエローマジックオーケストラの細野晴臣さんについて書かせていただきたいと思います。

皆さんは、もちろん YMO はご存知だと思いますが、私たちの世代(1963年生まれ)は、YMOのリアルタイム世代でした。高1の時に初めて友人にYMOを聴かせてもらった時のことはよく覚えています。

ドイツのクラフトワークからはじまった、テクノミュージックですが、その音楽が全く理解できず、何が面白いんだろうこの音楽??という感想でした。

しかし、その後、テープに録音して家で何度も聴いているうちに、どハマりして大ファンになってしまったのですが、、。

さらに、ラジオの特集番組などで、メンバーそれぞれのソロワークスが紹介され、懐かしいような、遠い憧れのような、なんとも言えないミステリアスな音楽世界を作っていた細野さんワールドに徐々に引き込まれていったのです、、。

すでに、仏教に興味があり、しかも不登校の子どもで1日中布団の中に潜って過ごしていた時期なので、世間で流行っているものより、何かこの世界の真理を表現しているような、深淵を覗かせてくれるようなものに惹かれていたのかも知れません。

例えば、ラジオで「すべてのものはエネルギーであり、バイブレーションです」といった一言に、訳がわからないまま「う〜〜ん、バイブレーションか〜〜」と背伸びして分かったフリをしてみたり、、。

その当時、YMO全盛の頃ですから、1980年前後だと思いますが、ラジオに出演していた細野さんが、とても印象的なこんなお話をしていたことを覚えています。

YMO結成前夜、もうすでにそれぞれ交流のあったメンバー同士の間である驚愕の出来事があったそうです。

それは、細野さんと坂本龍一さんが、偶然にもまったく同じメロディーの曲を書いたというのです!!

具体的な曲名は上げていませんでしたし、関係性が近いと知らないうちにメロディーを聴いていて、それが無意識に出てしまった、ということも考えられます。

ですが、その時、細野さんはラジオで、「どこかにあるエネルギーにアクセスして、それを音楽という形で表現する」「アクセスする場所が近いと自ずと表現も似てくる」というようなことをお話ししていました。

これは、高校生だった私には衝撃でした!!

音楽の才能を極めると、こんなことまで起こってくるのか!!!という感じでした。

実際、その曲を探すと、おそらくですが

細野晴臣さんソロアルバム
『はらいそ』収録の「ウォーリービーズ」と、

坂本龍一さんソロアルバム
『千のナイフ』収録の「エンド オブ エイジア」のメロディーで同じ箇所があります。

これをどう取るかは微妙ですが、細野さんは、ホントーに偶然、同じメロディーを二人がほぼ同時期に作った、とお話ししていました。

こんなことってあるのでしょうか!?

完全なるシンクロ、しかもその時代のエネルギーをそのまま切り取ったような、時代ともシンクロした出来事だと、音楽の才能うんぬんより、音楽やアートとはこのように創られていくのか!?ということに感嘆した覚えがあります!!

また、そのすぐ後に購入した細野さんの著書『地平線の階段』は、今まで音楽雑誌などに寄稿したエッセイを集めた細野さんによる世界音楽紀行 と言ったものですが、これがまた面白い!!!

ハワイに行ったときのこと、エキゾティックミュージック、マーティン デニー、画家の横尾忠則さんとの対談、インドへ行ったときのこと、カリブ海の音楽、スティール ドラム、、、

世界中のいろいろな音楽に触れながら、その深い洞察と、ポピュラーミュージック音楽家という立ち位置からの視点による解説。さらに、マジカル ミステリーな要素が加わって、私は完全に打ちのめされた感じでした!!!

細野さんは、ご自分のことを「趣味的人間」とおっしゃっていました。

好奇心旺盛で、いろいろな音楽に興味があり、実際に現地へ行ってその音楽やミュージシャンに触れ、音楽や社会背景、人々や土地のバイブレーションまで感じ取り、吸い取って帰ってくる。

そして、その類い稀なる音楽の才能で、様々な体験を自身の中に落とし込み、作品として発表していく、、。

太平洋戦争後、アメリカによって占領され、民主主義国家として生まれ変わった日本という国は、少なくとも表面上は一旦ここでリセットします。それの評価は、立場、考え方によって様々であると思いますので、ここでは触れません。

しかし、音楽に関しては、世界中を席巻したビートルズが、日本にも1966年に来日し、洋楽と呼ばれる英語によるロックンロールやフォークなどのポピュラーミュージックが若者を中心に流行し、そのスタイルを日本人が後追いで追いかけていく構図ができてきます。

私もビートルズが大好きで、ロックを好きになったのはビートルズの存在があったから、私にとっても神様のような存在です。

、、、が、やはり、洋楽マニアとしては、ロックはあちらのモノ、自身がやるにはある種の壁を感じていたのも事実です。

1947年生まれの細野さんにとっては、そこらへんの感覚はもっとハッキリ、ミュージシャンとしての根源的な表現に関わる感覚としてあったのだと想像します。

太平洋戦争が終わったのは1945年で、戦後は終わったと言われたのが約20年後の1964年の東京オリンピックです。

1947年といえば戦後の大混乱期に生まれ、幼少期は日本の戦後復興とともにあったと言えます。

そんな中、感じたことは一体何だったのか、、。

やはり、日本人としての自分の、そして世界共通のロック、ポピュラーミュージック探しだったのではないか、と思い至るのです。

それが、言語、人種、民族を超えた部分で表現を共有しやすい、シンセサイザーを元にテクノミュージックを創り上げていくことになる、と勝手に想像してしまいます。

そして、無機質な音楽と言われるテクノですが、実は、それを創り出したミュージシャンは、何とこんなにも精神性にあふれていたのでした!!!

細野晴臣 公式サイト
http://hosonoharuomi.jp