打の四:パーカッションあるあると、この曖昧な世界 ② / 打と居と魚
※ パーカッショニスト木村和人による寄稿は、パーカッショニスト目線の「打・カテゴリ」、DIY関連の「居・カテゴリ」、アクアリウム関連の「魚・カテゴリ」、三つのテーマでお届けしております。
本日は・・・
打の四:パーカッションあるあると、この曖昧な世界 ②
魚カテゴリーが連続していたので、すっかりアクアリストのコラムと化していましたが、どっこい、パーカッショニストです。
「打カテゴリ」というのもあるのです。
打の一、打の二では、
- たった一つの音色が、出した側と、聴いた側とで、全く違う捉え方をしている場合がある。
- それは、パーカッションにおいてはよくあること。
- 「センス」ねぇ・・・。
といったような内容を述べました。
そこでもチラッと触れましたが、人の可聴範囲はそれぞれだったり、「そもそも低音が好き!」とか、「何と言ってもキラキラ音色が好き!」・・・等々の個人的好みが絡みまくりますから、「この曖昧な世界」ってなわけです(すでに、上の例の「キラキラ」なんて、なんとまぁ、曖昧なこと)。
と、ここまでは、「音色について」の話でしたが、実は「リズムやテンポについて」も、同じことが起こることがあります。
「走ってる」「速い」「もたってる」「遅い」問題。
結論から言うと、これらの「感覚」は、クリックを同期しながらの演奏時以外は、あんまり意味のない形容だと思っています。
音楽をする上で、万人に等しく与えらていて、なおかつ「客観的な」基準は唯一「時間」であります。
「〇〇い」と感じる「感覚」は、甚だ個人的なものであって、更には、その言葉を発した者自身においてすら変化していきます。
?? と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、特にパーカッショニストは、他ジャンルを渡り鳥しながら演奏する機会が多いので、それら個々のジャンルのリズムを習得しようとする過程で、自身のタイム感(ここでは、客観的時間軸における、発音のスピード感)が変化することを体感していると思われます。
少なくとも私はそうです。
様々なジャンルにおけるグルーヴ、ノリ、と言ったものを獲得するために、「絶対的基準=時間」の具現物たるメトロノームと対峙し続け、それらとの関係性を洗い出していきます。
すると、今まで聴こえてなかったタイム感を伴ったリズムが聴こえてきたり・・・と言うことが起こるのです。
それは「能力が上がった」・・・と言うよりは、むしろ「新しい回路が開いた」と言う形容がしっくりきます。
からの!
ちゃぶ台をひっくり返して、
「その新しい回路も結局『感覚』だからあてにならんわな~」
と、も一つ相対化しちゃって・・・、と言うのを繰り返して、より精巧な回路を仕立て上げる・・・と言う作業を続けています。
そんなわけで、Xカ月、X日前の私と現在の私では、回路の具合が全然違うので、同じ「感覚」を持ち続けてるわけじゃ無いってことで・・・、
あら?
これって、パーカッションあるあるじゃなくて、全パートに言えることですよね。
全てのパートがリズムを伴い、音階だって12音階の間の音が使われている音楽だってあるわけで(脱線:絶対音感て12音階の範疇の出来事ですかね??)、それら曖昧な感覚の総体として音楽が出来上がってると言う不思議。
とどのつまりが、皆それぞれ、ちょっとずつ違う回路を装備しているのだから、「同時多発ソロ」くらいの勢いでやるのが最も健全なアンサンブルなんだろな、と思うわけであります。
ザ・ソロパート! みたいのとは、全く違う意味で。
・・・と、何気に「パーカッションあるある」から離れてしまったので、本題へ戻ります。
パーカッションあるある
- その①:ドラムレス編成時にバックビートの「タメ」を求められる。
- その②:楽器を(無断で)触られる。
運搬が大変・・・みたいな、目で見てわかることは省きました。
① は、実に沢山の経験をしました。
実のところ、この辺りは絶対的時間軸に対して「遅らせる」といった単純な話では解決できないのでありまして(と言うか不可能、と言うか、やりたく無い@パーカッションでは)、むしろ、「遅らせる」事に拘泥すると、時間軸から逸脱する可能性を秘めております。 奏法が全く違いますからね。
1小節に数回しか打たなくても良いスネアであれば、時間軸をキープしたまま、発音を前後することは可能ですが、パーカッション類で、そうはいきません。
それよりも、スネアのサスティーン(音の伸び)に着目する事によって、パーカッションそれぞれの奏法は守ったままで、つまりは、パーカッショニストがパーカッションを演奏しながら(ドンとパンだけならパーカッショニストじゃなくても良いし、その方が手っ取り早いです)発注された「タメ」を作ることができるようです。
② は厄介です。
カフェなど、舞台として一段上がってないような状態で楽器据え置き・・・といった現場ですと、休憩してるのに自分の楽器の音が聴こえてくることがあります。
「触って良さそう」なオーラが楽器類から出てるのかもわかりません。
他の楽器が勝手に鳴らされてる・・・なんて事は、まずあり得ないですよね。
とりあえず、すぐ音が出るから?? といっても、叩きゃ音の出るドラムセットを勝手に・・・てことも、なさそうです。
この事象の背景に何があるのかは、今のところ謎です。
ひとこと言って頂ければ、どうぞ、と申しますが・・・ね・・・。
て!! ウソ!!
ちょっと、状況が変わりました!
最近入手した楽器は、その製作者から、
「他の人に触らせてはならない」
と言われたのです。
スピリチュアルな話ではなくて、楽器自体の寿命のため、とのこと。 修理しようと思ったら、海を渡らせねばならないので、勘弁してください!
そんなわけで、その楽器だけは触らないでください!!
・・・でも、きっと触るだろうから、ガードしますね。
それでは次回、
【打の五、兼、居の三:日本に(たぶん)2台しかない楽器と、日本に一台しかない楽器のご紹介 ~前者のケースは自作した&後者のケースも作ろう!~】
で、お会いしましょう。
追記
コロナ禍で、私のような「雇われもの」は仕事が激減したので、待っているだけではあかん!! と始めたYouTube。
最近新作をアップしましたので、過去動画と新作を、本文の内容とリンクさせて紹介させていただきます。
▼ まず一本目。
フラメンコのBulerias(ブレリアス)という曲種の独特なリズムでカホン・ソロを演奏した動画です。
こちらは、勉強の為にレコーディングスタジオ(http://fukudastudio.com/)にて、録音、撮影、編集、それぞれプロのエンジニアさんにお願いしました。
動画制作について右も左も分からない状態だったので、
「自己プロデュースしていく手段としての動画配信」を考えたとき、音楽動画とはどのように作られるのか?
と、実際の現場を見ておきたかったのです。
・・・やはり、プロの仕事は素晴らしい・・・。
さて、以下は演奏そのものについて。
本文における「絶対的時間軸」とグルーヴの関係性に挑みましたが、その部分に関しては、ぶっちゃけ満足していません。 ここには、「耳ではわかってるのに、身体が脳と直結していない」というフェーズがあったりします(困ったもんです)。
そんな場合は、「ここが限界やな」とプレイバック時に判断することとなります。
▼ 続いて2本目。
こちらは、録音・撮影、それぞれの編集も自分で行いました。
完全にオリジナルなので、各パートを並べるための座標軸としてのクリックを流しているだけで、1本目の「時間軸に対するグルーヴとは?」というような葛藤とは無縁です。
その分リズムがぬるいですが「自分の中の音を表に出した」ということの方に意味があるんちゃうかな・・・という次第です。
▼ そして、新作。
初めて打楽器以外の録音にチャレンジしました。
フラメンコ・ギターです(動画作成に至った事と次第は概要欄に記述しましたので、宜しければご一読ください)。
こちらは、Tanguillos(タンギージョス)という曲種を用いた Rodrigo Mabel(ロドリゴ・マベル)のオリジナル曲です。
伝統音楽を土台としていることを鑑みると、細かいところをタイミング補正して「時間軸とグルーヴ」の関係性を整えたり、コーラスのピッチに補正をかけるべきだったかもしれませんが、しませんでした。
曲の世界観、演者の出自、人柄等々・・・、が身体に入ってくるに従い、生の録って出し感というか、ありのままの状態の方が良い気がしたのです。
そんなわけで、本文中で述べたような「主観の危うさと、客観の絶対性」のせめぎ合い・・・、我々はそれらと不可避ながらも、音楽の本来的な魅力とは、それらとは別の所にあるはずで、
「そのことは書き忘れたな~」
と、入稿後に思ったのですが、この追記の中で何となく述べることができて良かったです。
「YouTubeチャンネルのことをもっと書いたらどうか?」
と、アドバイスを下さった運営サイドに感謝します。
・・・更新頻度も低く、録音・撮影・それぞれの編集も、よくわからんまま七転八倒してますが、じんわりと続けて行こうと思います。
木村和人 Kazuto Kimura|YouTube Channel
https://www.youtube.com/channel/UC8Em3WRWOHKIIJjpyZvIGGw