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Japanese innovator〜テディ団 vol.② / 島嶼国(とうしょこく) “日本のSoul Dance”

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島嶼国(とうしょこく) “日本のSoul Dance”

2つの大きな世界大戦を終え、英国はかつての大英帝国としての世界的地位は崩壊する。 そして1960年代後半、若い労働者階級の人達の実入りは激減し、日々の生活が苦境に落ち入った。

その反動なのかアンダーグラウンドの中で1つのカルチャーが浸透した。(此れが全世界に広がり、後のレイブカルチャーの原型とも言われています。)

彼等は何百マイルも離れた距離を移動しマンチェスターを皮切りに北部を目指し、ダンススタイルも特徴的なその場所へ向かった。

タムラ・モータウンやチェスレコードから発せられたソウルミュージックに「何かを求めていた!」彼等の心に響いたのは間違いない。 そしてその場所はチェスレコードの創立者が、黒人音楽に感銘を受けたマコンバ・ラウンジを思わせる熱さがあった。

此れが「Northern Soul」の始まりであり、言わば英国の「ソウル」「ソウルダンス」に当てはまる存在なのです。 そして1970年代後半よりディスコが英国は勿論、世界中で大流行し、その聖地「Wigan Casino」はビルボード誌に於いて1978年に “ディスコ” として、読者投票で世界一に選ばれたヴェニューでもあった。(なんと10万人以上の会員が存在した!)

更に1978年は、この「Northern Soul」を産んだ英国で「世界ディスコ・ダンスコンテスト」の第1回目が開催されたのです。

ディスコ、そしてソウルミュージックが生まれた大陸のアメリカでは無く島嶼国(島国)の英国で、そしてそのチャンピオンとなったのが同じく島嶼国の日本人。

此処からは、この大会のチャンピオンであるテディ団氏に前回に引き続き、様々な角度からお話しを伺って参りましょう。

・・・

 

1970年代は間違いなくディスコカルチャーが他の色んなカルチャーを巻き込んだと思います。 そんな中、イギリスでレコード会社であるEMI主催の「世界ディスコ・ダンスコンテスト」が開催されていました。 それに関して、当時の状況とかどうでしたか?

「まず、1978年は映画『サタデーナイトフィーバー』が流行った年代で、1977年後半くらいにその『世界ディスコ・ダンスコンテスト』に向けての日本大会があった。 名古屋から西が西日本そして静岡から東が東日本、こんな感じで区分けされ1978年に日本大会の決勝があり、夏頃に世界大会が開催されたよ。 レコード会社も今と違って資金力があったから実現したのだろうね。 EMI(イギリス)はビートルズやローリングストーンズなんかも、かつて所属していたのは有名な話でね。 一方、アメリカのCBSと日本のソニーは手を組んでいたよね。 だから、日本では東芝EMI(1973年に東芝のグループ会社として設立したが後にEMIに売却)とソニーがライバルだった。 そんな中、詳しい事は言えないけど、EMIが主催する事になった。 とにかくディスコというのは影響力が凄かった、当時は。」

 

ー 英国で開催でしたが、会場は何処でやられたのでしょう?

「場所は『エンパイア・ボールルーム』で舞台はサタデーナイトフィーバーのように設営にされていたね。 ジャッジはラテン、バレエなどのソーシャル系とかタップの人とかが行っていたよ。」

 

ー 世界大会でのスケジュール感はどんな感じでしたか?  賞品やその大会後の事も気になります。

「予選から準決勝、そして決勝で2週間、賞品は5000ポンド(現代の価値では約350万円)の現金と北アイルランドを含む英国全土や南アフリカのヨハネスブルグをツアーで回れる事。 南アフリカではボクシングのタイトルマッチ前にも出演。 1980年にはドミニカ、シンガポール、タイのバンコクも回ったな。 大会後は東芝EMIとも契約して仕事をやり、次の第2回世界大会はジャッジとして仕事を依頼されたりとか様々あった。」

 

ー ヨハネスブルグ! 未だ当時、南アフリカはアパルトヘイトが存在していたはずですが、簡単には行けないですよね?

「そう。車に乗り込んだ時は目隠しをされた(笑)。 目隠しを取ったら歓迎の踊りとかあったりで、白人と非白人の人種隔離がアパルトヘイトやけど差別的な待遇はなかった。 南アフリカでは日本人は当時、名誉白人という扱いで、企業や政府も深いつながりがあったみたい。 それに対してイギリスは上から目線的な場面もあり、北アイルランドは紛争があったから怖いのと、イヤな思い出が残っている。 時代的には色んな摩擦と其れに伴うエネルギーが強かったからね。」

 

ー そんな英国も日本も島国で、いわゆる「島嶼国」なので独自の文化が栄えやすいと言われています。 その英国は60年代なかばからは、いわゆるアメリカの黒人音楽の人気は大変なものであり絶大でした。

「ストーンズもビートルズも黒人音楽に大分影響を受けているし、かなりのマニアとも言われてるからね。 彼等が売れてイギリスから逆輸入の形で本国アメリカにマディウォーター、チャックベリーも紹介されて評価が上がった。 シカゴのチェスレコードは『黒人の音楽を白人に紹介し売りたい!』がイギリスに渡って実現した形になったのも面白いね。」

 

ー そんな英国での大会で、団さんの踊りが評価された事は誇らしい出来事です。 大会で何か印象に残ったことは?

「確かに大会に出ていたイギリスのダンサーは独特な踊りで派手なアクロバットが特徴だったけど、それよりプエルトリコの子は上手かったのを覚えているよ。 ノリが違ったね。映画『サタデーナイトフィーバー』でも主人公がプエルトリカンのダンサーに対して『あなたが一番です』って言っていたのを思い出したね。」

 

ー そう言えば、「サタデーナイトフィーバー」は雑誌「ニューヨーク」に掲載されたイギリス人音楽ジャーナリストのルポルタージュ記事が基で、貧困、マイノリティへの差別、ウーマンリブ等の当時の時代背景をきっちりと盛り込んで、「ディスコ・ムーブメント」を的確に捉えていると評価を受けていましたね。

「其れは多分、イギリス人目線で書くと客観的に捉える事が出来るからね。 あの、ピーターバラカンもイギリス人で、彼の著書『ソウルのゆくえ』もそんな視点を感じる本で同じ様に感じるね。」

 

ー 英国の踊りのベースが「ノーザンソウル」のようです。 言わば英国の「ソウルダンス」になりますね。

「好き嫌いは別として独自のモノやったね。 歴史を観ると大陸には国境があり、其処で争いが起こりやすいけど島国は海を隔てているからその分守られるからね。 それとイギリスは4大レコード会社のEMIが存在し、影響力もあった。 よく言えば国民性としては気位が高い国。 そんなのも相まったんが『英国のソウルダンス』かもね。」

 

ー 今、考えると1979年にアメリカではディスコ・デモリッション・ナイトを皮切りに反ディスコ運動が出てきているので、英国で開催された事に不思議な意義を感じます。

「純粋にダンスの大会として成りたったという部分では確かにね。 何故ならアメリカではディスコカルチャーにはゲイカルチャーとも繋がっていたから、その部分もフォーカスされるのは当然。 そう考えると、日本はダンスホールからディスコの流れだから、そこは英国同様に本国のアメリカとは違う。 そのダンスも自分達、日本人が、持っていないノリをステップとして本国のヤツを米軍基地で観察して創り、それに名前を付ける事で伝えていた。 米軍基地は日本に数ヶ所あるから、地域毎に違いも出てくる。 ただし本国のヤツがそのステップの名称で踊っていたのかはクエスチョンやけどね。」

 

ー となると同じステップの名前でも例えば大阪、東京、九州、広島で違ったりするのですか?

「そう違った。 例えば米軍基地でもコザや岩国、他色々あったけどネイビーが踊っていたのか、エアフォースなのかアーミーなのかでもニュアンスが違うのも当然。 皆な『ソウルトレイン』に夢中やったけど、俺は基地で覚えるのが好きやった。『パーティーグルーヴ』を直接感じる事ができるし、踊っているステップの意味とかも、直接基地の連中に聞けるから。 例えば基地の連中が日本人を蔑んだ目で作ったのもあり、其れを『日本人が踊るのはどう?』って思わせてくれたりするから。」

※ 当時の米国基地の様子については前回の記事をご覧ください

Japanese innovator~テディ団 vol. ① / “Soul Dance” is made in japan.

 

ー お話を伺い、思い出しましたが「リズム感」という言葉は英語にはないみたいです。

「なるほどね。 古来日本人のダンスには当然、西洋のリズムの概念が無かったからね。 だからステップとしてそのノリを作って誰もれが踊れるようにする。 当時、レコード会社はレコードを売るためにダンスもセットにしていて、レコードのジャケットの裏に足跡の絵や切り取り写真のステップレクチャーみたいなのがあったね。 俺も自分のレコードがあり、そのジャケットの裏を見たけど『此れで分かる?』って(笑)」

 

ー サルサとかラテンダンスのチャチャとソウルチャチャ比較して観ると面白いですよね。

「元々ある人と無い人の比較ではね。 だけど、日本人は昔、猿真似とか揶揄されていたけど観察して洗練させる能力は高いと思う。 無いところから作っている点は凄く誇れる部分やし。 こんなダンスを踊っていると『黒くなりたい』って思ったりしたけど今は『黒くなりたいです』って言われたら『じゃあ、焼いたら?』って言っている(笑)。 イエローで良いやん。」

 

ー そうですね。 無い所から作り上げ、元々有るモノと比較しても「其処をそんな風に表現できるんだ!」って知恵を感じます。

「俺は『ソウルダンス』は何度も言うように、日本で作られたモノであり、日本人が持って無いモノを日本人として作って来た証だと思っている。 世界大会で勝ってしまって、その結果が浸透してしまったけど、本来は『パーティーグルーヴ』が大事。 だから若い子らは男と女で向き合うペアで踊ってみて欲しいな。 俺は基地で見た踊りが好きで、それに先輩の代から作られたモノを地域関係無く、良い所を選んで踊るようにしている。 其れを若い子らにも伝えたいと考えているから、例えば、世代が俺より若い人と一緒に踊ってみたりね。 まぁ俺も勉強になるし(笑)。 其れは今後もやって行きたい事やからチャンスが有ればどんどん取り組むつもり。『日本のソウルダンス』の良さを伝えれる人間としてね。」

 

ー 伝えれる人間の「生き証人」でもありますから。 色々と感じ入る事が沢山ありました。 有難う御座います。

 

あとがき

前回の「Soul Dance is “made in Japan”」で収めきれなかった団さんの思いが今回の中にあります。

それは世界大会で優勝しながらも御自身が大事にしている事、そして「島国の日本人」の美徳は決して世界に劣らずむしろ誇れる事、其れは奇しくも1979年のベストセラー「Japan as Number One: Lessons for America」を思い出さされます。

そして御自身より早く、先に旅立たれた仲間への深い思いが其処にはあります。

世界大会で優勝した事も凄いのですが、その時、そしてその場所などを改めて鑑みると一過性の出来事ではなく、その人の「使命」を考えさせられる点も挙げられます。

もし、少しでも其れ等が伝われば幸いです。

TEDDY DAN(テディ団)プロフィール

1978年 EMI主催の「第一回世界ディスコダンスコンテスト」にて優勝し、此れを皮切りに幾多のキャリアを積み重ねダンスシーンでは『ソウルの神様』の異名を持つ。

今もなお、長年培った高度なベーシックを基にしたそのパフォーマンスは数多くのダンサーの手本となり目標となっている。

現在は2017年より「認定NPO法人 J-Blue Organization」を京都にて設立し、国内はもとよりアジアに向けて日本で生まれた『ソウル・ダンス』の歴史・文化・ルーツを正しく後世につなぐ活動を行っている。

J-Blue (認定NPO法人 J-Blue Organization)
https://www.j-blue.org/